知っておきたい!華道・生け花の歴史について
海外からも注目される華道や生け花は日本の文化芸術を代表するもの。現在でも女性の習い事の定番でもあります。では華道や生け花はどのような歴史から生まれたものなのでしょうか。今回は華道や生け花の起源や歴史についてご紹介します。
01華道とは?
華道といえば、季節の草花や樹木などを飾るもの。しかし、単に花を飾ればよいというわけではありません。華道では複数の植物はもちろん、そのほかの素材とどのように組み合わせを行うかが重要です。また、華道は植物の美しさはもちろん、命の尊さなどを表現するもの。
さらに「道」という言葉がついていることからも分かるように、美しい花や植物を飾るだけでなく、その中にも礼儀作法や心と身体の修練が必要。
華道は日本発祥の芸術で、現代にいたるまで数多くの華道家が生け花のための技術を追求、様々な技巧や流派が存在するようになりました。
02華道の起源
美しく花を生けるとともに、心と身体の修練も行う日本独特の華道。では華道はどのように生まれたものなのでしょうか。
実は華道や生け花がいつどのように誕生したのかははっきりとはしていません。しかし、仏教で仏様や個人に対して花を供える風習が華道のルーツになったとも言われています。
日本に仏教が伝来したのは六世紀ごろ。この時代は飛鳥時代と言われていて、この頃に現在の華道や生け花のルーツが生まれたのではないかと言われています。
また、日本には三百を超える華道の流派が存在するとされていますが、その中でも最も古い華道の家元である「池坊(いけのぼう)」の初代・池坊専慶が僧侶でもあったことからも、華道と仏教は密接な関係にあったと考えられます。
日本では仏教伝来以前からも、植物をはじめとする様々な自然に神様が宿るという考え方が存在していました。たとえば神社の古い樹木を御神木とするなど、自然の中に神の存在を感じる日本人の心や、生活の中の節目となる出来事などで草花を飾った習慣が生け花のルーツになっているという説もあります。
03生け花の成立は室町時代
生け花が現代のような形で成立したのは室町時代だと言われています。
室町時代の文献には、生け花の構成と鑑賞の方法が紹介されています。室町時代は、茶道や能など、現代でも日本的な文化とされている様々な芸術が誕生した時代。また、貴族の時代であった平安時代に代わって武士が権力を持つようになり、次々に新しい芸術が誕生していきます。
では、室町時代の生け花はどのように変遷していったのでしょうか。
3-1前期:生け花の成立
生け花にとって重要なのが、「唐物」と呼ばれた中国大陸からもたらされた器です。室町時代は唐物が多く日本に輸入されるようになった時期。同時に、絵画なども珍重されるようになりました。
これらの器や絵画が増えると、それを飾るための場所が必要になります。そこで誕生した書院造。書院造は床の間の原型となる押板や違い棚などのある建築様式で、現代の日本の木造住宅の原型とものなったもの。
書院造の建築は、客を迎えるための空間として将軍をはじめとする権力者の邸宅や寺院などに用いられるようになりました。
この邸宅や寺院などに飾りとして用いられたのが花。床の間に花を飾ることで、器や絵画がさらに引き立てられるようになります。
また、床の間に花を飾るということは、花を決まった方向から見るということにもつながります。現代のような決まった方向から見ることを前提とした生け花が生まれたのはこういった文化的な背景によるものでした。
そこに加わったのが草花にも人間と同じ命が宿るという思想です。仏様には花の他にもお香や灯明を備えますが、これらを備えるための三具足(花瓶・香炉・燭台)も用いられるようになり、生け花にも真(本木)と下草から作られる「立て花」と呼ばれる手法が生まれます。
そこで登場するのが、六角堂の僧侶であった池坊専慶です。
東福寺の禅僧の日記である「碧山日録」に残る記録によれば、池坊専慶が武士に招かれて挿した花が京都で評判を集めるようになります。仏様や神様にお花を供える文化はすでに存在していましたが、池坊専慶の花はそれまでの概念を越えるもので、ここから日本の文化である生け花は本格的な始まりを迎えていきます。
3-2後期:生け花理論の確立
室町時代の後期になると生け花はさらに発展していきます。
そのときに大きな役割を果たしたのが「花王以来の花伝書」。「花王以来の花伝書」は現存する最古の花伝書と言われ、池坊専慶から続く生け花の姿を示したもの。器や花の構成、種類などが描かれて、どのように生け花が発展していったのかという過程を知ることができます。
やがて、応仁の乱によって室町幕府は衰退しますが、生け花の知識はますます深まっていきます。
十六世紀の前半になると、池坊専慶から続く生け花の理論は池坊専応によって「池坊専応口伝」にまとめられるようになります。池坊専応は、宮中や寺院などで生け花を行い「華之上手」と称賛された人物。
「池坊専応口伝」は、従来のように単に美しい花を飾るだけでなく、草木本来が持っている風雅さを知り、花だけでなく枯れた枝なども用いることで、自然の姿を表現する大切さが説かれています。また、立て花と下草の具体的な姿も解説されていますが、同時に複雑な芸術としての生け花のも関心が寄せられています。
池坊専応の後を継いだ池坊専栄は、七つの役枝によって構成される図面を残していますが、これは「立花」と呼ばれるようになります。
当時は生け花だけでなく、茶の湯も盛んになっていた時期。生け花は茶の湯を行う茶席にも使われる花としての時代を迎えるようになります。
04生け花の発展と池坊
現在の生け花が誕生した室町時代。その後、日本は戦国時代に突入しますが、その後も生け花は独自の発展を続けていきます。その中心となった流派が池坊です。
4-1安土時代~江戸時代前期
豊臣秀吉によって天下が統一されると、城や武家屋敷を中心にさらに大きな床の間が設けられるようになります。そのため、飾られる花もさらに大きくなっていきます。
特に初代・池坊専好は前田利家の邸宅の床の間に巨大な生け花である「大砂物」を立てたことから、「池坊一代の出来物」と称賛を受けることになります。「砂物」とは、砂を器に敷き詰めることを意味したもの。このスケールの大きな作品は、大きな評判となります。
さらに慶長四年には、京都の大雲院で開かれた花会に弟子百人が花を生け、それを見物に多くの人々が訪れることに。初代・池坊専好によって、生け花の世界で池坊の地位が確立されていきます。
豊臣秀吉が死去し、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸幕府を開き、江戸時代に入ってからも池坊への依頼はますます増加。
初代・池坊専好の後を継いだ二代目池坊専好は江戸の武家屋敷はもちろんのこと、京都でも後水尾天皇が親王と公家などを集めて催した会でも指導的な役割を果たすようになります。後水尾天皇が退位した後も、宮中の立花会は仙洞御所に場所を移して催されることに。
さらに二代目池坊専好は、それまで生け花の中心であった公家や武家、僧侶といった枠を超えて町人社会にも進出。多くの弟子を生み出していきます。この時代は、生け花のすそ野が大きく広がっていく契機となりました。
4-2江戸時代中期
江戸時代の中期になると、公家や武家ではなく、経済力をつけた町人が生け花の中心となっていきます。さらにこの時代には、簡素でありながら格調高い花形が求められるようになります。
このときに重要となったのが大阪。安土桃山時代から経済の中心であった大阪・上方で発展した十七世紀後半の元禄文化にも二代目池坊専好が大成した立花が大きな影響を与えます。たとえば近松門左衛門の浄瑠璃には立花で使われた言葉が多く登場していることから、町人の間にも立花が大流行してした様子を知ることができます。
さらにこの時代の生け花が大きく発展した背景には、書物の普及がありました。書物によってさらに多くの人々が生け花の知識に触れるようになり、これまでは限られた人々しか楽しむことができなかった生け花が町人のたしなみとして広がっていきます。
この時期に出版された「古今立花大全」は、立花の理論を解説した書物として代表的な存在ですが、そのほかにも池坊家元や門弟の立花図集である「立花図并砂物」「新撰 瓶花図彙」などが次々と出版されていきます。
元禄五年には奈良東大寺の大仏開眼供養において、池坊門弟の猪飼三枝と藤掛似水が高さ約九メートルに及ぶという巨大な立花を製作、それが評判になって当時の沖縄である琉球からも入門者が生まれるなど、生け花は全国に広がるとともに、池坊の会頭を筆頭とする門弟組織の構築も始まっていきます。
このような立花だけでなく、庶民の間に広がったのが「生花」。生花は華やかな立花とは対照的に軽やかさが特徴で、「抛入(なげいれ)花」と呼ばれていましたが十八世紀の中頃になると、さらに格調高い形として「生花」と呼ばれるようになりました。
4-3江戸時代後期
江戸時代後期に入ると、池坊専定による立花の革新が行われるようになります。それが理想的な樹形を作る「幹作り」と呼ばれるものです。池坊専定は寛政九年に立花の図集である「新刻 瓶花容導集」を出版。「新刻 瓶花容導集」は家元と弟子の立花図集としては約百年ぶりとなるものですが、それまでの立花が自然の枝の広がりを活かす手法が中心だったのに対して、池坊専定は木の幹を切り次いで理想的な樹形を作る「幹づくり」の手法を確立、やがて時代の中心となっていきます。
さらに生花の分野でもこの時代には大きな変化が訪れます。生花は簡素な花形が魅力で町人の人気を集めていましたが、その流行はさらに広がり、池坊の門弟数が数万人規模に増大。地方でも高い技術を持った人々が増えていく中で、門弟制度の組織作りも進んでいきます。
さらに文化元年には初めての生花図集となる「百花式」、五年後には「後百花式」が出版。さらに池坊専定が生花の正しい形を示すことを目的にした「『挿花百規」も出版されます。
4-4明治時代~昭和初期
生け花は時代の変化とともに変化を重ねてきた芸術ですが、それは明治維新でも同じでした。特に、明治維新によって日本の首都が東京に遷都されたことは、これまでの時代に比べてさらに大きな変化をもたらします。
というのも、京都はこれまで天皇や公家が住まいを置いた日本の中心。しかし遷都によって、天皇を始め多くの人が東京に移動することになります。
明治五年、京都の衰退を防ぐため京都博覧会が開催、そこで池坊専正は「旧儀装飾十六式図譜」を出品し、以後、京都博覧会は毎年開催されるようになります。
さらに池坊専正は京都府女学校の華道教授に就任、女性に対する生け花教育が誕生します。実は女性が生け花を学ぶようになったのはこれがきっかけ。それまで、生け花は男性によって行われることが中心でしたが、この時期から女性の生け花人口が急増していきます。
池坊専正が定めたのは、習いやすく教えやすい花形である「正風体」。
さらに、この時代は暮らしが急速に西洋化していきますが、それにマッチした生け花として「投入」「盛花」というスタイルが生まれます。というのも、これまで生け花では日本固有の花が用いられていましたが、海外との貿易が大きくなるに従って洋花が流通、生け花はこれらの新しい花に対して対処する必要に迫られました。そこで、生まれたのが「盛花」。「盛花」は剣山などの道具を使う手法で、これによって花を気軽に活けることができるようになりました。
池坊でもこのスタイルを取り入れて、立花や生花の応用という意味を込めた「応用花」が誕生します。
4-5以降
戦時中は生け花にとっては厳しい時代が続きましたが、第二次大戦が終結すると京都や大阪で展覧会が開かれるなど、生け花は再び人々の生活の中に蘇ります。特に盛んになったのが「自由花」と「新風体」と呼ばれるもの。これらは「投入」や「盛花」の流れを引くもので、新しい生け花の花形としての地位を獲得していきます。現在では、生け花は日本だけでなく海外からも大きな注目を集めていますが、その技法は時代に適応しながら発展を続けています。
05まとめ
生け花は日本人の感性から誕生した文化芸術。当たり前に行われていることにも、実は様々な意味が隠れています。生け花の歴史を知ることは、さらに楽しみを追求することにつながります。
さらに「道」という言葉がついていることからも分かるように、美しい花や植物を飾るだけでなく、その中にも礼儀作法や心と身体の修練が必要。
華道は日本発祥の芸術で、現代にいたるまで数多くの華道家が生け花のための技術を追求、様々な技巧や流派が存在するようになりました。
実は華道や生け花がいつどのように誕生したのかははっきりとはしていません。しかし、仏教で仏様や個人に対して花を供える風習が華道のルーツになったとも言われています。
日本に仏教が伝来したのは六世紀ごろ。この時代は飛鳥時代と言われていて、この頃に現在の華道や生け花のルーツが生まれたのではないかと言われています。
また、日本には三百を超える華道の流派が存在するとされていますが、その中でも最も古い華道の家元である「池坊(いけのぼう)」の初代・池坊専慶が僧侶でもあったことからも、華道と仏教は密接な関係にあったと考えられます。
日本では仏教伝来以前からも、植物をはじめとする様々な自然に神様が宿るという考え方が存在していました。たとえば神社の古い樹木を御神木とするなど、自然の中に神の存在を感じる日本人の心や、生活の中の節目となる出来事などで草花を飾った習慣が生け花のルーツになっているという説もあります。
03生け花の成立は室町時代
生け花が現代のような形で成立したのは室町時代だと言われています。
室町時代の文献には、生け花の構成と鑑賞の方法が紹介されています。室町時代は、茶道や能など、現代でも日本的な文化とされている様々な芸術が誕生した時代。また、貴族の時代であった平安時代に代わって武士が権力を持つようになり、次々に新しい芸術が誕生していきます。
では、室町時代の生け花はどのように変遷していったのでしょうか。
3-1前期:生け花の成立
生け花にとって重要なのが、「唐物」と呼ばれた中国大陸からもたらされた器です。室町時代は唐物が多く日本に輸入されるようになった時期。同時に、絵画なども珍重されるようになりました。
これらの器や絵画が増えると、それを飾るための場所が必要になります。そこで誕生した書院造。書院造は床の間の原型となる押板や違い棚などのある建築様式で、現代の日本の木造住宅の原型とものなったもの。
書院造の建築は、客を迎えるための空間として将軍をはじめとする権力者の邸宅や寺院などに用いられるようになりました。
この邸宅や寺院などに飾りとして用いられたのが花。床の間に花を飾ることで、器や絵画がさらに引き立てられるようになります。
また、床の間に花を飾るということは、花を決まった方向から見るということにもつながります。現代のような決まった方向から見ることを前提とした生け花が生まれたのはこういった文化的な背景によるものでした。
そこに加わったのが草花にも人間と同じ命が宿るという思想です。仏様には花の他にもお香や灯明を備えますが、これらを備えるための三具足(花瓶・香炉・燭台)も用いられるようになり、生け花にも真(本木)と下草から作られる「立て花」と呼ばれる手法が生まれます。
そこで登場するのが、六角堂の僧侶であった池坊専慶です。
東福寺の禅僧の日記である「碧山日録」に残る記録によれば、池坊専慶が武士に招かれて挿した花が京都で評判を集めるようになります。仏様や神様にお花を供える文化はすでに存在していましたが、池坊専慶の花はそれまでの概念を越えるもので、ここから日本の文化である生け花は本格的な始まりを迎えていきます。
3-2後期:生け花理論の確立
室町時代の後期になると生け花はさらに発展していきます。
そのときに大きな役割を果たしたのが「花王以来の花伝書」。「花王以来の花伝書」は現存する最古の花伝書と言われ、池坊専慶から続く生け花の姿を示したもの。器や花の構成、種類などが描かれて、どのように生け花が発展していったのかという過程を知ることができます。
やがて、応仁の乱によって室町幕府は衰退しますが、生け花の知識はますます深まっていきます。
十六世紀の前半になると、池坊専慶から続く生け花の理論は池坊専応によって「池坊専応口伝」にまとめられるようになります。池坊専応は、宮中や寺院などで生け花を行い「華之上手」と称賛された人物。
「池坊専応口伝」は、従来のように単に美しい花を飾るだけでなく、草木本来が持っている風雅さを知り、花だけでなく枯れた枝なども用いることで、自然の姿を表現する大切さが説かれています。また、立て花と下草の具体的な姿も解説されていますが、同時に複雑な芸術としての生け花のも関心が寄せられています。
池坊専応の後を継いだ池坊専栄は、七つの役枝によって構成される図面を残していますが、これは「立花」と呼ばれるようになります。
当時は生け花だけでなく、茶の湯も盛んになっていた時期。生け花は茶の湯を行う茶席にも使われる花としての時代を迎えるようになります。
04生け花の発展と池坊
現在の生け花が誕生した室町時代。その後、日本は戦国時代に突入しますが、その後も生け花は独自の発展を続けていきます。その中心となった流派が池坊です。
4-1安土時代~江戸時代前期
豊臣秀吉によって天下が統一されると、城や武家屋敷を中心にさらに大きな床の間が設けられるようになります。そのため、飾られる花もさらに大きくなっていきます。
特に初代・池坊専好は前田利家の邸宅の床の間に巨大な生け花である「大砂物」を立てたことから、「池坊一代の出来物」と称賛を受けることになります。「砂物」とは、砂を器に敷き詰めることを意味したもの。このスケールの大きな作品は、大きな評判となります。
さらに慶長四年には、京都の大雲院で開かれた花会に弟子百人が花を生け、それを見物に多くの人々が訪れることに。初代・池坊専好によって、生け花の世界で池坊の地位が確立されていきます。
豊臣秀吉が死去し、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸幕府を開き、江戸時代に入ってからも池坊への依頼はますます増加。
初代・池坊専好の後を継いだ二代目池坊専好は江戸の武家屋敷はもちろんのこと、京都でも後水尾天皇が親王と公家などを集めて催した会でも指導的な役割を果たすようになります。後水尾天皇が退位した後も、宮中の立花会は仙洞御所に場所を移して催されることに。
さらに二代目池坊専好は、それまで生け花の中心であった公家や武家、僧侶といった枠を超えて町人社会にも進出。多くの弟子を生み出していきます。この時代は、生け花のすそ野が大きく広がっていく契機となりました。
4-2江戸時代中期
江戸時代の中期になると、公家や武家ではなく、経済力をつけた町人が生け花の中心となっていきます。さらにこの時代には、簡素でありながら格調高い花形が求められるようになります。
このときに重要となったのが大阪。安土桃山時代から経済の中心であった大阪・上方で発展した十七世紀後半の元禄文化にも二代目池坊専好が大成した立花が大きな影響を与えます。たとえば近松門左衛門の浄瑠璃には立花で使われた言葉が多く登場していることから、町人の間にも立花が大流行してした様子を知ることができます。
さらにこの時代の生け花が大きく発展した背景には、書物の普及がありました。書物によってさらに多くの人々が生け花の知識に触れるようになり、これまでは限られた人々しか楽しむことができなかった生け花が町人のたしなみとして広がっていきます。
この時期に出版された「古今立花大全」は、立花の理論を解説した書物として代表的な存在ですが、そのほかにも池坊家元や門弟の立花図集である「立花図并砂物」「新撰 瓶花図彙」などが次々と出版されていきます。
元禄五年には奈良東大寺の大仏開眼供養において、池坊門弟の猪飼三枝と藤掛似水が高さ約九メートルに及ぶという巨大な立花を製作、それが評判になって当時の沖縄である琉球からも入門者が生まれるなど、生け花は全国に広がるとともに、池坊の会頭を筆頭とする門弟組織の構築も始まっていきます。
このような立花だけでなく、庶民の間に広がったのが「生花」。生花は華やかな立花とは対照的に軽やかさが特徴で、「抛入(なげいれ)花」と呼ばれていましたが十八世紀の中頃になると、さらに格調高い形として「生花」と呼ばれるようになりました。
4-3江戸時代後期
江戸時代後期に入ると、池坊専定による立花の革新が行われるようになります。それが理想的な樹形を作る「幹作り」と呼ばれるものです。池坊専定は寛政九年に立花の図集である「新刻 瓶花容導集」を出版。「新刻 瓶花容導集」は家元と弟子の立花図集としては約百年ぶりとなるものですが、それまでの立花が自然の枝の広がりを活かす手法が中心だったのに対して、池坊専定は木の幹を切り次いで理想的な樹形を作る「幹づくり」の手法を確立、やがて時代の中心となっていきます。
さらに生花の分野でもこの時代には大きな変化が訪れます。生花は簡素な花形が魅力で町人の人気を集めていましたが、その流行はさらに広がり、池坊の門弟数が数万人規模に増大。地方でも高い技術を持った人々が増えていく中で、門弟制度の組織作りも進んでいきます。
さらに文化元年には初めての生花図集となる「百花式」、五年後には「後百花式」が出版。さらに池坊専定が生花の正しい形を示すことを目的にした「『挿花百規」も出版されます。
4-4明治時代~昭和初期
生け花は時代の変化とともに変化を重ねてきた芸術ですが、それは明治維新でも同じでした。特に、明治維新によって日本の首都が東京に遷都されたことは、これまでの時代に比べてさらに大きな変化をもたらします。
というのも、京都はこれまで天皇や公家が住まいを置いた日本の中心。しかし遷都によって、天皇を始め多くの人が東京に移動することになります。
明治五年、京都の衰退を防ぐため京都博覧会が開催、そこで池坊専正は「旧儀装飾十六式図譜」を出品し、以後、京都博覧会は毎年開催されるようになります。
さらに池坊専正は京都府女学校の華道教授に就任、女性に対する生け花教育が誕生します。実は女性が生け花を学ぶようになったのはこれがきっかけ。それまで、生け花は男性によって行われることが中心でしたが、この時期から女性の生け花人口が急増していきます。
池坊専正が定めたのは、習いやすく教えやすい花形である「正風体」。
さらに、この時代は暮らしが急速に西洋化していきますが、それにマッチした生け花として「投入」「盛花」というスタイルが生まれます。というのも、これまで生け花では日本固有の花が用いられていましたが、海外との貿易が大きくなるに従って洋花が流通、生け花はこれらの新しい花に対して対処する必要に迫られました。そこで、生まれたのが「盛花」。「盛花」は剣山などの道具を使う手法で、これによって花を気軽に活けることができるようになりました。
池坊でもこのスタイルを取り入れて、立花や生花の応用という意味を込めた「応用花」が誕生します。
4-5以降
戦時中は生け花にとっては厳しい時代が続きましたが、第二次大戦が終結すると京都や大阪で展覧会が開かれるなど、生け花は再び人々の生活の中に蘇ります。特に盛んになったのが「自由花」と「新風体」と呼ばれるもの。これらは「投入」や「盛花」の流れを引くもので、新しい生け花の花形としての地位を獲得していきます。現在では、生け花は日本だけでなく海外からも大きな注目を集めていますが、その技法は時代に適応しながら発展を続けています。
05まとめ
生け花は日本人の感性から誕生した文化芸術。当たり前に行われていることにも、実は様々な意味が隠れています。生け花の歴史を知ることは、さらに楽しみを追求することにつながります。
室町時代の文献には、生け花の構成と鑑賞の方法が紹介されています。室町時代は、茶道や能など、現代でも日本的な文化とされている様々な芸術が誕生した時代。また、貴族の時代であった平安時代に代わって武士が権力を持つようになり、次々に新しい芸術が誕生していきます。
では、室町時代の生け花はどのように変遷していったのでしょうか。
3-1前期:生け花の成立
生け花にとって重要なのが、「唐物」と呼ばれた中国大陸からもたらされた器です。室町時代は唐物が多く日本に輸入されるようになった時期。同時に、絵画なども珍重されるようになりました。
これらの器や絵画が増えると、それを飾るための場所が必要になります。そこで誕生した書院造。書院造は床の間の原型となる押板や違い棚などのある建築様式で、現代の日本の木造住宅の原型とものなったもの。
書院造の建築は、客を迎えるための空間として将軍をはじめとする権力者の邸宅や寺院などに用いられるようになりました。
この邸宅や寺院などに飾りとして用いられたのが花。床の間に花を飾ることで、器や絵画がさらに引き立てられるようになります。
また、床の間に花を飾るということは、花を決まった方向から見るということにもつながります。現代のような決まった方向から見ることを前提とした生け花が生まれたのはこういった文化的な背景によるものでした。
そこに加わったのが草花にも人間と同じ命が宿るという思想です。仏様には花の他にもお香や灯明を備えますが、これらを備えるための三具足(花瓶・香炉・燭台)も用いられるようになり、生け花にも真(本木)と下草から作られる「立て花」と呼ばれる手法が生まれます。
そこで登場するのが、六角堂の僧侶であった池坊専慶です。
東福寺の禅僧の日記である「碧山日録」に残る記録によれば、池坊専慶が武士に招かれて挿した花が京都で評判を集めるようになります。仏様や神様にお花を供える文化はすでに存在していましたが、池坊専慶の花はそれまでの概念を越えるもので、ここから日本の文化である生け花は本格的な始まりを迎えていきます。
3-2後期:生け花理論の確立
室町時代の後期になると生け花はさらに発展していきます。
そのときに大きな役割を果たしたのが「花王以来の花伝書」。「花王以来の花伝書」は現存する最古の花伝書と言われ、池坊専慶から続く生け花の姿を示したもの。器や花の構成、種類などが描かれて、どのように生け花が発展していったのかという過程を知ることができます。
やがて、応仁の乱によって室町幕府は衰退しますが、生け花の知識はますます深まっていきます。
十六世紀の前半になると、池坊専慶から続く生け花の理論は池坊専応によって「池坊専応口伝」にまとめられるようになります。池坊専応は、宮中や寺院などで生け花を行い「華之上手」と称賛された人物。
「池坊専応口伝」は、従来のように単に美しい花を飾るだけでなく、草木本来が持っている風雅さを知り、花だけでなく枯れた枝なども用いることで、自然の姿を表現する大切さが説かれています。また、立て花と下草の具体的な姿も解説されていますが、同時に複雑な芸術としての生け花のも関心が寄せられています。
池坊専応の後を継いだ池坊専栄は、七つの役枝によって構成される図面を残していますが、これは「立花」と呼ばれるようになります。
当時は生け花だけでなく、茶の湯も盛んになっていた時期。生け花は茶の湯を行う茶席にも使われる花としての時代を迎えるようになります。
4-1安土時代~江戸時代前期
豊臣秀吉によって天下が統一されると、城や武家屋敷を中心にさらに大きな床の間が設けられるようになります。そのため、飾られる花もさらに大きくなっていきます。
特に初代・池坊専好は前田利家の邸宅の床の間に巨大な生け花である「大砂物」を立てたことから、「池坊一代の出来物」と称賛を受けることになります。「砂物」とは、砂を器に敷き詰めることを意味したもの。このスケールの大きな作品は、大きな評判となります。
さらに慶長四年には、京都の大雲院で開かれた花会に弟子百人が花を生け、それを見物に多くの人々が訪れることに。初代・池坊専好によって、生け花の世界で池坊の地位が確立されていきます。
豊臣秀吉が死去し、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸幕府を開き、江戸時代に入ってからも池坊への依頼はますます増加。
初代・池坊専好の後を継いだ二代目池坊専好は江戸の武家屋敷はもちろんのこと、京都でも後水尾天皇が親王と公家などを集めて催した会でも指導的な役割を果たすようになります。後水尾天皇が退位した後も、宮中の立花会は仙洞御所に場所を移して催されることに。
さらに二代目池坊専好は、それまで生け花の中心であった公家や武家、僧侶といった枠を超えて町人社会にも進出。多くの弟子を生み出していきます。この時代は、生け花のすそ野が大きく広がっていく契機となりました。
4-2江戸時代中期
江戸時代の中期になると、公家や武家ではなく、経済力をつけた町人が生け花の中心となっていきます。さらにこの時代には、簡素でありながら格調高い花形が求められるようになります。
このときに重要となったのが大阪。安土桃山時代から経済の中心であった大阪・上方で発展した十七世紀後半の元禄文化にも二代目池坊専好が大成した立花が大きな影響を与えます。たとえば近松門左衛門の浄瑠璃には立花で使われた言葉が多く登場していることから、町人の間にも立花が大流行してした様子を知ることができます。
さらにこの時代の生け花が大きく発展した背景には、書物の普及がありました。書物によってさらに多くの人々が生け花の知識に触れるようになり、これまでは限られた人々しか楽しむことができなかった生け花が町人のたしなみとして広がっていきます。
この時期に出版された「古今立花大全」は、立花の理論を解説した書物として代表的な存在ですが、そのほかにも池坊家元や門弟の立花図集である「立花図并砂物」「新撰 瓶花図彙」などが次々と出版されていきます。
元禄五年には奈良東大寺の大仏開眼供養において、池坊門弟の猪飼三枝と藤掛似水が高さ約九メートルに及ぶという巨大な立花を製作、それが評判になって当時の沖縄である琉球からも入門者が生まれるなど、生け花は全国に広がるとともに、池坊の会頭を筆頭とする門弟組織の構築も始まっていきます。
このような立花だけでなく、庶民の間に広がったのが「生花」。生花は華やかな立花とは対照的に軽やかさが特徴で、「抛入(なげいれ)花」と呼ばれていましたが十八世紀の中頃になると、さらに格調高い形として「生花」と呼ばれるようになりました。
4-3江戸時代後期
江戸時代後期に入ると、池坊専定による立花の革新が行われるようになります。それが理想的な樹形を作る「幹作り」と呼ばれるものです。池坊専定は寛政九年に立花の図集である「新刻 瓶花容導集」を出版。「新刻 瓶花容導集」は家元と弟子の立花図集としては約百年ぶりとなるものですが、それまでの立花が自然の枝の広がりを活かす手法が中心だったのに対して、池坊専定は木の幹を切り次いで理想的な樹形を作る「幹づくり」の手法を確立、やがて時代の中心となっていきます。
さらに生花の分野でもこの時代には大きな変化が訪れます。生花は簡素な花形が魅力で町人の人気を集めていましたが、その流行はさらに広がり、池坊の門弟数が数万人規模に増大。地方でも高い技術を持った人々が増えていく中で、門弟制度の組織作りも進んでいきます。
さらに文化元年には初めての生花図集となる「百花式」、五年後には「後百花式」が出版。さらに池坊専定が生花の正しい形を示すことを目的にした「『挿花百規」も出版されます。
4-4明治時代~昭和初期
生け花は時代の変化とともに変化を重ねてきた芸術ですが、それは明治維新でも同じでした。特に、明治維新によって日本の首都が東京に遷都されたことは、これまでの時代に比べてさらに大きな変化をもたらします。
というのも、京都はこれまで天皇や公家が住まいを置いた日本の中心。しかし遷都によって、天皇を始め多くの人が東京に移動することになります。
明治五年、京都の衰退を防ぐため京都博覧会が開催、そこで池坊専正は「旧儀装飾十六式図譜」を出品し、以後、京都博覧会は毎年開催されるようになります。
さらに池坊専正は京都府女学校の華道教授に就任、女性に対する生け花教育が誕生します。実は女性が生け花を学ぶようになったのはこれがきっかけ。それまで、生け花は男性によって行われることが中心でしたが、この時期から女性の生け花人口が急増していきます。
池坊専正が定めたのは、習いやすく教えやすい花形である「正風体」。
さらに、この時代は暮らしが急速に西洋化していきますが、それにマッチした生け花として「投入」「盛花」というスタイルが生まれます。というのも、これまで生け花では日本固有の花が用いられていましたが、海外との貿易が大きくなるに従って洋花が流通、生け花はこれらの新しい花に対して対処する必要に迫られました。そこで、生まれたのが「盛花」。「盛花」は剣山などの道具を使う手法で、これによって花を気軽に活けることができるようになりました。
池坊でもこのスタイルを取り入れて、立花や生花の応用という意味を込めた「応用花」が誕生します。
4-5以降
戦時中は生け花にとっては厳しい時代が続きましたが、第二次大戦が終結すると京都や大阪で展覧会が開かれるなど、生け花は再び人々の生活の中に蘇ります。特に盛んになったのが「自由花」と「新風体」と呼ばれるもの。これらは「投入」や「盛花」の流れを引くもので、新しい生け花の花形としての地位を獲得していきます。現在では、生け花は日本だけでなく海外からも大きな注目を集めていますが、その技法は時代に適応しながら発展を続けています。