竹田城跡の人気観光スポット3選【天空の城・日本のマチュピチュでおすすめ!】

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竹田城について

天空の城、日本のマチュピチュなどとして話題になり一躍有名になった竹田城は、兵庫県朝来市和田山町にある山城跡です。東側に立雲峡を見渡すロケーションにあり、古城山(虎臥山)山頂の天守跡を中心にして南北に約450m、東西に約100mの規模の広さがあり、かつては本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に鳥が翼を広げるように配置されていました。現存する日本の山城の中で最大規模の遺構です。

雲海に浮かぶ竹田城跡を見るポイント

雲海は秋から冬、春にかけての明け方によく発生します。高気圧の中心が日本海にある西高東低の気圧配置で朝晩の気温差がある日に発生しやすくなります。雨の日の翌日にも雲海がよく発生します。

竹田城の歴史

竹田城が歴史に登場するのは、嘉吉年間(1441年~1443年)に記された「和田上道氏日記」で、そこには竹田城の前にあった呼び名の「安井ノ城」が築かれたことが記録されています。嘉吉三年に山名持豊が築き太田垣光景が初代城主に任じられました。

ちょうどこの時代は室町幕府の6代将軍足利義教の時期で、6代将軍足利義教は室町幕府の重臣であった赤松満祐によって暗殺されます。やがて播磨・備前・美作守護であった赤松満祐は室町幕府の追討軍に滅ぼされ、その恩賞として太田垣光景が初代城主に任じられました。

1400年代から1500年にかけて竹田城は播磨と但馬の国境を守る要衝として重要な拠点になっていました。

戦国時代には、しばしば細川氏や赤松氏らの脅威にさらされながら太田垣氏は竹田城の城主として持ちこたえます。その後も織田信長の攻略に何度も遭いましたが、太田垣輝延は引き続き城主として竹田城にとどまりました。

天正元年(1573年)には、毛利軍が但馬に迫り、太田垣輝延は毛利軍に降伏し芸但同盟が成立します。

天正5年(1577年)に毛利軍と織田信長の争いが激しくなり羽柴秀吉の弟である秀長によって竹田城は落城しました。

竹田城では戦が三日三晩続き、秀長が竹田城の城代となりました。

―引用ー

太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なり(武功夜話)

―引用ー

最後の竹田城の城主は赤松広秀氏で、関ケ原の戦いでは西軍に付いたことから敗戦、赤松広秀氏は鳥取真教寺にて切腹します。

その後江戸時代に入り、廃城となります。

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